「日本の親が気づけない「子供をバイリンガルに育てたい」の危険性」という記事を読んで

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「第一線の専門家たちがニッポンに「なぜ?」を問いかける」でおなじみのMAG2NEWS」に「日本の親が気づけない「子供をバイリンガルに育てたい」の危険性」という記事が掲載されていました。ライターはシアトル在住のTOMOZOという翻訳家です。2017728日に掲載されてすでにツイート数は787Facebookシェアは1396なので、MAG2NEWSの中でもかなり人気の記事のようです。ネタリカというサイトにも掲載されています。しかし、一読しても著者が何を言いたいのかよくわかりません。読み始めたらさっそく読者をイラつかせる文章が出てきます。

「英語教育の現場に立っていらっしゃる方から見るとピントが外れていたり、何をいまさらと思われるかもしれないが、部外者の勝手な感想だと思ってスルーしていただければ幸甚である。」

最初から予防線を張っています。ピント外れな議論をしていてもわたしは素人だから「勝手な感想だと思ってスルー」してくれ、だそうです。「第一線の専門家たちがニッポンに「なぜ?」を問いかける」サイトに記事を載せてそれはないかと思います。

我慢して読み進めると、すぐにわけのわからない発言に出くわします。

「日本の、特に子どもの英語教育で違和感を感じるのは、それが「芸」としてのみ捉えられているようにみえるところだ。日本の人は芸事が好きで、特に試験とレベル分けが好きだ。…これが英語にも適用されていて、TOEICや英検などが英語力の目安になっている。」

TOEICや英検が芸事? あのう、どこの親御さんが「うちの子供にも芸事を習わせたくて先週から英語スクールに通わせているの」と言いますか。TOMOZOさんはSATの勉強をしているアメリカの高校生に「芸事が大好きですね」と言っているのでしょうか。何か勘違いしておられるようですが、琴・三味線・茶の湯・生け花・踊りなどの遊芸を芸事というんですよ。「レベル分け」が好きだと「芸事が好き」にはなりません。2012年に将棋の6級だった藤井聡太さんはいまや将棋4段となり順調に段位が上がっていますが、誰も彼が芸事にご熱心とは思っていません。だって将棋は芸事ではありませんから。

また、小学生の読書感想文ではないのですから「と思う」の連発もやめた方がよいかと思います。これは日本でもアメリカでも同じことで、英文もI think(もしくはI believe)と繰り返し書いていると非常に幼稚な文章と捉えられます。

「自分のスキルを一般的な基準に照らしてチェックするのは必要なことだと思うし」
「子どもの言語力にこういう考え方を当てはめるのは意味がないと思う。」
「有象無象のバイリンガルの中で、最高峰の言語能力を持つのは通訳者の皆さんであるのは異論がないと思う。」
「それがどれほど莫大な情報量なのかがあまりわかっていない親御さんも、特に日本でバイリンガル子育てをしようと試みている方の中には、もしかしたらけっこういるのではないかと思う。」
「子どもをバイリンガルに育てたいと思う親御さんは、それだけのことを子どもの脳に要求しているのだときちんと認識しておくべきだと思う。」
思うにモノリンガルの人ほど、子どもをバイリンガルにしたいという過剰な期待を持ちがちなのではないかという気がする。」
「どれだけ早く第2言語を獲得して使いこなせるかは、教え方や環境よりも、むしろその子どもの生来の能力によるところが大きいのではと思う。」
「結果、それで良かったのかどうかはわからないが、まあ全面的に間違いではなかったと思う。」
「早期の言語教育というのは、投資効果があまり高いとはいえないと思うのだ。」
「逆にそのことでキャリアパスへの意識が言語のほうに偏ってしまう可能性もあるのではないかと思う。」
「早い段階での言語能力は、大人になってからのスキルや能力と直結しているわけではないと思う。」
「ちなみに、第2言語の獲得に臨界期があるというのは、不思議な都市伝説だと思う。」
「中学生くらいまでは、子どもの脳はフル回転で情報を整理して世界を構築している時期だと思うのだ。」
「だから、その時期に子どもの獲得した言語能力について一喜一憂するのは、あんまり意味がないことだと思う。」
「とはいえ、バイリンガル教育がいけないとかムダとか、いうつもりはまったくない。優れた教育の場で複数の言語に触れながら育つのは素晴らしいことだと思うし
「ただ、本格的なバイリンガル教育には、教育者や保護者の慎重なサポートと相当のコミットメントが必要なのは間違いないし、子どもに合う合わないもあると思う。」
「同じように教育しても、同じレベルのバイリンガルが出来上がるわけでは決してないのだと思う。」
「英語(だけでなく他言語)に触れる機会は、早くからあった方がいいと思う。」
「その体験は、音楽や体育と同じように、経験値を上げて脳の基礎力を上げることに役立つと思う。」
「でも、子どもに英語を学ばせる目的を、大人のほうがもう一度整理した方がいいんじゃないかと思うのだ。」
「小学校に英語が導入されても、「芸」の進み具合を測るテストが増えるだけでは本末転倒だと思う。」
「まず、英語を話す世界に入っていくことのメリットを、子どもたちに説得できなければだめだと思う。」
「「芸」としての英語ではなくて、生きている文化として、リアルな社会のツールとして、考えるツールとしての英語とその先にある情報の世界が、自分にぜひとも必要で入手可能なものとしてリアルに感じられないとモチベーションにはならないし、本当の知的刺激にもなり得ないと思う。」

閑話休題。イラっとした文章は「スルー」して議論の内容にだけフォーカスします。

タイトルは「日本の親が気づけない「子供をバイリンガルに育てたい」の危険性」です。何が危険なのでしょうか。

エッセイを最初から最後まで読んでも何が危険なのかよくわかりません。彼女が主張しているのはせいぜい「2ヵ国語教育を幼児から始めてもどうせうまくいかないよ。子どもをバイリンガルにさせるのは大変だから」といったものです。子どもを宇多田ヒカルレベルのバイリンガルにさせようと必死でがんばっている親御さんには有効な反論かもしれませんが、バイリンガル教育をしている親のほとんどが宇多田レベルにさせるのは無理とわかった上で子供に英語を習わせています。TOMOZOさんの主張は、TOEIC満点を目指しTOEICの勉強をしているサラリーマンに対して「そんなの無理無理。満点なんて取れっこないからTOEICの勉強をしてもしょうがない」と言っているようなものです。しかし450点しか取れなかった人が800点取れるようになったら勉強した価値はそれなりにあるでしょう。

著者の早期英語教育批判の1つが日本の親は言語をスキルとしてだけ捉え、言語の基盤にある文化を内在化しない限り言語を習得できないということをわかっていないという主張です。

「日本の、特に子どもの英語教育で違和感を感じるのは、それが「芸」としてのみ捉えられているようにみえるところだ。…もちろん言語はスキルには違いないのだけど、同時に言語は文化であり、思考プロセスそのものの一部であり、その人の内面の大きな部分を構成する要素でもある。そのことが、英語教育の議論ではほとんど無視されているように見えてならない。つまり、言語の背景にある文化の厚みが身についているかどうか、ということ。バイリンガル環境で子どもにふたつの言語を完全に習得させようとするのは、ふたつの文化をまるごと理解させようとすることだ。」

「では、A言語(母語)とB言語(「完全に流暢に喋れる」が、母語ではない言語)の決定的な違いはなにか、というと、私が通訳の授業を受けたハワイ大学のスー先生は「子ども時代の歌や童話などに通じているかどうか」「ジョークがわかるかどうか」を例として挙げていた。つまり、言語の背景にある文化の厚みが身についているかどうか、ということ。文化はとてつもなく入り組んだ、とてつもなく膨大な情報だ。言語の機微はその文化の一部。ある文化の中に生きる人が共有する価値観、なにがタブーなのか、なにがイケてるのか、といった皮膚感覚のような非言語情報まで把握していないと、冗談はわからないことが多い。バイリンガル環境で子どもにふたつの言語を完全に習得させようとするのは、ふたつの文化をまるごと理解させようとすることだ。それがどれほど莫大な情報量なのかがあまりわかっていない親御さんも、特に日本でバイリンガル子育てをしようと試みている方の中には、もしかしたらけっこういるのではないかと思う。」

著者の主張は大体においてstraw man argumentになっています。straw manとは「藁人形」のことです。Wikipediaには A straw man is a common form of argument and is an informal fallacy based on giving the impression of refuting an opponent’s argument, while refuting an argument that was not presented by that opponent. と説明されています。要するに相手の主張を批判しているように見えるけど、実際には批判されているのはその「相手」ではなく論者が作り出した架空の藁人形にすぎないというわけです。文化の理解なしに言語を完璧に習得できないというTOMOZOさんの主張は正しいですが、バイリンガル教育をしている親御さんがそれを理解していないとは言えないし、TOMOZOさんがバイリンガルと認定しているレベルまで子供の英語力を高めようとしているとも言えません。TOMOZOさんによれば、「通訳者の間でもA言語、つまり母語をふたつ持つバイリンガルというのは非常にまれ」だそうです。要するにバイリンガル教育をしても母語を2つ持つトップレベルの通訳者にはなれないということですが、どの親御さんもそんなのは無理とわかっているので、誰に対してそのことを訴えているのかがよくわかりません。つまりstraw man argumentになっているわけです。そもそも語学学習は文化理解に相対立するものではなく、相手の言葉を知れば知るほどその言語に深くかかわっている文化の理解も深まります。こういう文化論を語って語学学習をしている人を批判する人は日本語の勉強をしている外国人に対しても、日本の文化を理解できないと日本語が何たるものかわからない、とか言い始めるのでしょうか。「日本語能力試験」でN1を目指して一所懸命日本語を勉強している外国人にも難癖をつけるのでしょうか。外国人がコミュニケーションツールとして日本語を学んでもいいじゃないですか。それは外国語を勉強している日本人も同じです。

TOMOZOさんは早期の語学教育はコストパフォーマンスが悪いとも主張しています。

「バイリンガル教育に乗り気でなかった理由には、コストパフォーマンスの問題もある。早期の言語教育というのは、投資効果があまり高いとはいえないと思うのだ。高い言語能力を2か国語で維持するのは子どもにとっても大変だし、親にとっても高いコミットメントが必要。時間もかかるし、お財布にも脳にも相当な負担がかかる。仮にそうして完璧なバイリンガルに育ったとしても、それで生涯の収入が約束されているわけではないし、逆にそのことでキャリアパスへの意識が言語のほうに偏ってしまう可能性もあるのではないかと思う。ふたつの言語ができるというのは確かに素晴らしいスキルではあるけれど、職業的な成功の上で最も大切なスキルではない。」

「子どもにとってもっと大切なことは、他にある。身体にそなわった感覚をフルに使って経験値を高めること、思考力を鍛えること、安定した自信を築くこと、他の人への共感を深めること、コミュニケーション力をつけること、知りたいと思う意欲を伸ばすことなどだ。もしも、第2言語を身につける努力のために、そういった能力を伸ばす機会が大きく損なわれるなら、それはとんでもない損失になる。というのが、私がうちの息子に第2言語である日本語をプッシュしなかった言い訳だ。」

TOMOZOさんはアメリカで子育てと仕事をしながら子供をバイリンガルにしようとしたが、あまりにも大変で子供に日本語教育を施すことをあきらめます。一つの家庭の体験談としてその話を聞く分には何も問題はありませんが、彼女の置かれた状況というのは日本国内に住んで親子とはまったく異なります。「貧乏で日本語補習校などには通わせられなかったという事情」は貧乏な家庭の親子に対しては当てはまりますが、お金に余裕のある家庭には何ら教訓になりません。そもそも「こいつは特別に言葉のカンがいい感じじゃないから、とくに2言語を強要するという無理はさせないでおこうと直感で決めた。それも親の勝手であって、見ようによってはただ単に親の怠惰を正当化しているだけかもしれないし…結果、それで良かったのかどうかはわからないが、まあ全面的に間違いではなかったと思う。」程度の経験をもとになぜ他人に忠告できると思ったのかが理解できません。「投資効果が高くない?」ですって。そんなことを言い始めると子供の習い事はすべて却下ということになります。TOMOZOさんは子供をピアノスクールに通わせたり、子供にバレエを習わせている親御さんにも同じことを言うのでしょうか?

ちなみに「早期の言語教育というのは、投資効果があまり高いとはいえない」と言っておきながら、別の箇所では「早期の英語教育はムダだと言いたいわけでもない。英語(だけでなく他言語)に触れる機会は、早くからあった方がいいと思う。他言語で考える練習や、異質な文化体系に触れる体験は多いに越したことはないし、早いに越したことはない。その体験は、音楽や体育と同じように、経験値を上げて脳の基礎力を上げることに役立つと思う。」と述べるのですから困ったものです。

MONOZOさんのバイリンガル大変説の規定にあるのが言語OS説です。

「私は、言語というのはコンピュータのオペレーションシステムのようなものだと思っている。コンピュータのハードウェアにもスペックや個性があるが、OSをのせて初めてその他のアプリが動かせる。日本語と英語のように構造の違う言語を同時に動かすということは、MacOSとWindowsを同時に走らせるようなもので、かなり脳のリソースを食うもの。しかもそのOSがふたつとも構築の途中であれば、構造全体がグラグラすることだってある。子どもをバイリンガルに育てたいと思う親御さんは、それだけのことを子どもの脳に要求しているのだときちんと認識しておくべきだと思う。」

素人的な発想ですが、このあたりは私も関連文献を読んでいないので「がんばらないバイリンガル育児」ブログを連載しているYoshieさんのコメントをそのまま記載します。むろんYoshieさんの主張の方が正しいです。

「むしろ今の学説だと、バイリンガルは1つのOS2つの言語アプリが入っている状態といったほうが適切かなと。しかも2つのアプリが相互に互換しているので、片方がグレードアップすると、もう片方もレベルアップする。逆に、片方がダウングレードすると、もう一方もレベルダウンしてしまう。それに、音感や運動能力を才能に左右される例としてあげていますけど、これは間違いです。“超一流になるのは才能か努力か?”でアンダース エリクソン(アメリカの心理学者) が明らかにしましたが、絶対音感は正しいトレーニングをつめば誰でも身に付けられます。運動能力も神経のつがなりが強化された結果なので、きちんと適切な時期(5歳~11歳くらい)に正しい方法で運動やトレーニングをすると、誰でもかなり上達します。ゴールデンエイジと言われていて、スポーツ界では常識です。運動も音感もバイリンガル習得と同じで、脳が行っています。だから、バイリンガルも正しい方法で、適切な時期に行えば、誰でもバイリンガルになれるはずだと個人的には思っています。バイリンガルになるには親と子供のコミットメントがかなり求められるのは事実ですが、才能があるとか、ないとかの話ではないかと。」

アンダーエリクソンの論文については以前このサイトで記事を書いたことがあるので育児教育に関心がある方は読んでみてください。

子どもの能力を最大限に伸ばすための計画的訓練の有効性: K.A.エリクソンの論文から

TOMOZOさんは最後にこう述べています。

「でも、子どもに英語を学ばせる目的を、大人のほうがもう一度整理した方がいいんじゃないかと思うのだ。目的は「英語ができるとカッコいい」ではないはずだし、漠然とバイリンガルにしたいというのなら、子どもにとっては迷惑な話だ。小学校に英語が導入されても、「芸」の進み具合を測るテストが増えるだけでは本末転倒だと思う。「将来、世界に向かってきちんと意見が表明でき、情報が読みこなせるレベルの英語力をつける」というのが目的なら、まず、英語を話す世界に入っていくことのメリットを、子どもたちに説得できなければだめだと思う。「芸」としての英語ではなくて、生きている文化として、リアルな社会のツールとして、考えるツールとしての英語とその先にある情報の世界が、自分にぜひとも必要で入手可能なものとしてリアルに感じられないとモチベーションにはならないし、本当の知的刺激にもなり得ないと思う。小学校で英語を導入するとしたら、その英語を使って手に入れられる多様で魅力的な世界をリアルに体験させてあげること以上に大切なことはないんじゃないかと思うのだ。」

はいはい、そう「思う」のですね。「思う」の連発ですね。小さな子供に外国語を学ばメリットをいちいち説得しないといけないのですね。子どもに説得できたら「バイリンガル学習はコストパフォーマンスが悪いので無駄」という主張はチャラにしていいんですか? というか、「リアルな社会のツールとして、考えるツールとしての英語とその先にある情報の世界が、自分にぜひとも必要で入手可能なものとしてリアルに感じられる」幼児英語教育ってハードルが高すぎませんか? 母国語の日本語でも子供はそんなものを感じていませんよ。

8月 8, 2017 · Pukuro · No Comments
Posted in: ■英語学習法

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