勝間和代さんの『まじめの罠』をまじめに読んでみる: ②「まじめ」はどこから来るのか

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では,「まじめ」はどこから来るのか。ある人は「まじめ」で別の人は「まじめ」でないとすれば、その違いはどこから生まれるのか。この問いについて考える前に、前回に続けて「まじめ」とは何か、もう少し考えてみます。

勝間さんは「まじめな人」は3つのスキルが不足していると主張しています。まずは、

ランク主義に染まり、価値観、視野に「多様な視点」がない。

この典型が学歴ランク主義そうです。まじめな人は生きたい学部ではなく偏差値で進路を決めるそうです。「したがって、東大の文Iと慶應の医学部を併願したりします。」(p. 73)

東大の文Iと慶應の医学部を併願する受験生って、毎年何人くらいいるのでしょうか。

東大、京大、慶應出身の医者は「まじめ」だから気をつけないといけないそうです(pp. 74-75)。彼らは患者や看護師からちよっと注意されただけで傷つくそうです―「なんでこんなに優秀なオレが、なぜ安い給料で週に70時間も80時間も休みなしで働かなきゃいけないんだ!」(p. 75)と。

あれっ? まじめな人って「与えられた課題設定に疑いを持たない人」、「与えられたものに対して逆らわない人」 じゃなかったっけ? だったら自分の現状に不満をもつのは悪いことじゃないんじゃないの?

ちなみに私も東大、京大、慶應出身の医者はできれば避けたいと思っていますが、それはかれらがまじめな人だからではありません。頭のいい医学生は研究者としての道に進むことが多いのですが、医学研究者は現場の臨床能力を重視しない傾向があるからです。

「決まり」を疑うような、問題設定能力がない。

勝間さんは融通が利かない信販会社や不動産会社を批判しています。クレジットカード取得や部屋の賃貸契約で苦労した経験があるようです(pp. 87-89)。

たしかにこれらは融通が利かないと私も思います。でも海外ではどうなのでしょうか。どこの国でも融通が利かない分野はあるんだし、個別的に対応すればいいんじゃないの?、くらいにしか私は思いませんが。例えば、学生ビザの発行は日本よりもアメリカの方が融通が利きません。領事館の応対・対応もアメリカの方がはるかにひどいです。最近まで九州の人がアメリカの大学のビザをとるときには、わざわざ大阪の米領事館にまでいかないといけませんでした。その大阪の領事館のビザ審査受付の日系人みたいなおばちゃんの応対なんてほんとひどかったですよ。

おっと、個人的な経験を一般的な議論に持ちだしてはいけませんね。まああ、勝間さんはすぐ自分の経験を一般化して話し始めるので、そこまで厳しく考える必要はないのかもしれませんが。

自分自身を客観視できるようなメタ認知能力がない。

「メタ認知とは、認知している自分を認知する能力、すなわち、自分で自分を客観的に見るスキルになります。何かを感じている自分を、第三者の視座で見ることができるようになるということです。」(p. 92)

「メタ認知能力に欠ける人は、すべての状況、文脈、話を「私(I)」という視点からしか語ることができません。歴史の中や社会の中に自分がいるのではなく、自分という存在が天動説のように中心にあり、そのまわりを歴史や社会が取り巻いているのです。したがって、そういう人たちは世の中を観察したり、情報を理解したりするときに、すべて「自分」という色眼鏡を通してまわりを眺めており、かつ、自分自身がその色眼鏡を持っていることに気づいていないのです。」(p. 93)

デービット・リースマンが『孤独な群衆』を発表したのは1961年のことです。彼は人の性格を3つに類型化しました。伝統指向型、内部指向型、他人指向型の3つです。勝間さんがいうメタ認知のできる人というのは、リースマンの類型化では他人指向型にもっとも近いのですが、実は他人指向型の人が多い国として指摘されていたのが日本人です。勝間さんがメタ認知に欠けた人を批判するのは一向にかまいませんが、何の証拠もなしに、日本人は海外の人よりも自分自身を客観的にみるスキルに欠けていると述べるのはやめてほしいものです。また、勝間さんによれば「たとえば、このメタ認知能力に欠ける人の代表例が、菅前首相」(p. 93)だそうです。

日本人はすぐお上を批判すると苦言を呈していたはずなのに、勝間さん自身がお上の悪口を言うのはいっこうにかまわないようです。それはさておき、私も菅首相は他人の目線に意識が及ばない人だとは思いました。でも、菅さんは決して「典型的」な日本人ではないから、彼がそうだというのは勝間さんの議論のサポートにはなりません。例外的な事例を持ち出してきて、だから日本人はこうだというのは典型的なinductive fallacyと言えます。

http://onegoodmove.org/fallacy/induct.htm

「まじめの罠」にはまると、どんなにまじめに努力しても、努力が成果に結びつかず、被害者意識が肥大化するそうです(p. 102)。

その例としてあげるのがオウム真理教とナチスによるホロコースト(p. 102)。これもinductive fallacyです。例外事項をいくら持ち出しても、日本人はだからこうなんだ、という議論のサポートにはなりません。

「努力すればするほど成果が出なくて凹んでいくと、だんだん自己嫌悪に陥っていきます。「こんなに頑張っているのに、どうして結果がついてこないんだろう。これは誰かが悪いに違いない!」という恨み節に変わっていくのです。そして、やがては自分の人生や社会を恨み、会社や政府を恨み、あるいは有名人たちを恨み、「自分のまわりの人は運がいいのに、自分だけは悪い、自分は被害者だ!」といったような、強い被害者意識を持つようになるのです。」(p. 103)

うまくいかなくて自己嫌悪に陥った人は、みな他人や社会を恨むようになるのでしょうか。勝間さんは「まじめ」をちゃんと定義していないので、「まじめな人」はあるまじめの特性によって、外界を恨むようになるのか(そうだとすれば、そうだという証拠を示さないといけません。例えば、勝間さんは日本人はとくに「まじめの罠」にはまると主張しているので、日本人は海外の人よりもいったん自己嫌悪に陥ると、被害者意識を持ち出し他人に恨む傾向が高いということを証明しないといけません)、それとも、すぐ失敗して自己嫌悪に陥ると被害者意識を持ち、他人を恨み出す人を「まじめな人」と定義化しているのか、どちらが正しいのかよくわかりません。

どうも、勝間さんは頭が固い人よりも柔軟な発想ができる人の方が社会的に成功しやすい、ということを主張しているだけのようです。これは困りました。そんなの誰でも知っていることだし、トートロジー的な無意味な主張とも言えます。

ずっと話が脱線しました。今回のトピックは「まじめはどこから来るのか」でしたが、『まじめの罠』を読んでも、なぜ日本人は「まじめ」なのかよくわかりませんでした。勝間さんは2つの理由をあげています。

「多くの人が減点法で育てられてきてしまったという、教育の問題があると思います。

減点法に支配されている世界の中で育つと、毎日毎日、親や先生から欠点ばかりを指摘されて育つため、自分に自信がなくなり、欠点を埋め合わせることに意識が向くようになります。それが、過剰な完璧さを求めるひとつの下地になるのです。

そして、そういう人に限って、大人になってから他人にも減点法の世界を適用してしまうことになります。」(p. 56)

なにやら一昔前に、ゆとり教育を推進していた教育評論家の意見に酷使していますが、とくに日本の教育法は欠点ばかり指摘し、完璧を求めるというのは本当なのでしょうか。勝間さんにはその証拠を示してほしいものです。

勝間さんはもう一つの原因を指摘しています。

「では、なぜ、そういう人たちは「まじめ」を追い求めてしまうのでしょうか。それは、その人たちにとって「まじめ」であることは正義であり、成功体験にもなっているからです。そのため、まじめである自分、努力する自分が一番の正義であり、一番の価値があることだと考えてしまうのです。そして、そういう人は「ふまじめな人」が基本的に大嫌いです。」(p. 29)

なぜ「まじめ」を追い求めるのか。その人たちにとってそれが正義であるからというのは、単なるトートロジーです。それが成功体験になっているからというのであれば…、

あれっ?目的と手段を状況に応じて柔軟に変えなくても成功できるの?

あれっ?成功すればそれに固執するのであれば、逆に失敗すれば、「まじめ」であることもやめるんじゃないの?だったら、自然調和で問題のある人はいなくなるんじゃないの?

クリティカルシンキングで勝間さんの本をじっくり読むと、いろいろな不可思議な主張をついつい見つけてしまうのであった。

 

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11月 1, 2011 · Pukuro · No Comments
Posted in: 雑談

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