勝間和代さんの『まじめの罠』をまじめに読んでみる: ③「まじめ」はどのような害悪をもたらすのか

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次は、③「まじめ」はどのような害悪をもたらすのか、という問いについて考えてみます。

まじめな人が罠にかかるとは、「何かに対して、まじめに、まじめに努力した結果、自分を、あるいは社会を悪い方向に導いてしまうリスクのこと」(p. 13)を指すそうです。例に出てくるのが、ヒトラーのユダヤ人大虐殺の指示を忠実に守り、実行に移したアドルフ・アイヒマン(pp. 13-14)です。

アイヒマンはたしかに極悪人ですが、ドイツが戦争に勝っていたら彼は失敗者の烙印を押されていなかったでしょう。勝間さんは別に社会のモラリティーについて議論しているわけではないので、アイヒマンを例に出す理由がよくわかりません。別にアイヒマンのせいでドイツが戦争に負けたわけではないのですから。

 

自分に与える害悪

話を元に戻します。勝間さんによると、「まじめ」によって害悪を受けるのは、①ご本人、と②社会の2つだそうです。まずは①から。まじめな人は自分をどう悪い方向に導くのか。勝間さんはこう語ります。

「さまざまな場面で「頑張ってもまったく報われない自分」に気づいてしまうと、無意識の中でどんどん、自己の「被害者意識」が増大していきます。なぜなら、「これは完全に世間が悪い。だって自分はこんなに頑張っているんだから!」といったような価値観の転倒が起こっていくのです。」(p. 112)

えっ、一生懸命頑張ってもうまくいかない人はみんなそれを社会のせいにするの?

ちょっと頭を整理してみましょう。世の中には①頑張る人と②頑張らない人がいます。そして、③うまくいく人と④うまくいかない人がいます。ということで世の中には①-③頑張ってうまくいく人、①-④頑張ってもうまくいかない人、②-③頑張らなくてもうまくいく人、②-④頑張らなくてうまくいかない人、の4タイプの人がいます。

勝間さんによれば、日本人のほとんどが「①-④頑張ってもうまくいかない人」であり、このタイプの人はそれを世間のせいにするそうです。2つの疑問が生まれます。

「①-④頑張ってもうまくいかない人」の中には、失敗の責任を自分にあると考え、自分を叱咤激励する人や、自分のダメさを過度に責める人もいるはずなのに、なぜ勝間さんはこのタイプの人は失敗の責任をつねに世間に求めると断定できるのでしょうか。

「②-④頑張らなくてうまくいかない人」も自分の不幸を社会のせいにしないのか。自分が家にこもっているのは社会が悪いからだと不満を持っているニートも数多くいるでしょう。「頑張ってもうまくいかないことに対する」不満ではなく、「頑張れないことに対する」不満から生じる怒りです。社会に対して不平ばかり言うのは、その当人が頑張り屋かどうかとはとくに関係しないように思えます。

ところで勝間さんは日銀の金融政策を批判し、日銀関係者や御用学者は被害者と考え、そのため加害者意識をもって日銀批判者を叩くと主張していますが(p. 113)、これって「まじめの罠」といった概念でいちいち説明しないといけないことでしょうか。適切な経済政策が何かについて意見の異なる人たちがけんかしているだけのことでしょう。

話が脱線しました。勝間さんによると、まじめな人は最終的に他者を差別するようになるそうです。

「自分が間違っているにもかかわらず、「正しい努力をしているのは自分だ。それなのに評価されないのは、相手(世の中)が間違っている」と考えるのは自己欺瞞の一種です。このような自己欺瞞がふくれあがると、堀江貴文さんや村上世彰さんなどの個人にとどまらず、自分と違う属性を持つ集団に対して憎悪や差別心を抱くようになります。

なぜなら、自己欺瞞の症状が一番現れるのは、自分の属性自慢だからです。自分の存在意義を満たすものは属性であり、その属性を自慢するためには、その属性を持っていない人たちをおとしめることが必要になるのです。…その程度が激しくなると、学歴どころか、日本人であること自体がエラい、といったような思い込みを生みます。そういう人たちは外国人差別をします。さらにひどいのは、健常者であることが障害者よりえらいとか、男であることが女よりえらいとか、そうした間違った差別意識を持つ場合です。差別をする人たちは、差別をしないと自分の尊厳が保てないくらい、いってみれば精神的に不安定なのです。」(pp. 118-119)

「まじめな人->差別をする人」の連関が「風が吹けば桶屋が儲かる」ほどに不明確になっています。まじめじゃなくても差別をする人もいるでしょう。まじめで社会的に失敗しても、他人にあたるのではなく、過度に自虐的になって自分ばかりを責める人もいるでしょう。勝間流「まじめな人」はうまくいかないと他人に対して差別意識をもつというのであれば、その証拠をちゃんと示してください。日本人のほとんどが「まじめの罠」にはまっているとも言っているので、勝間さんは日本人の大半は差別主義者だと主張しているわけです。勝間さんは日本人の大半は外国人や障害者を見下して差別していると言っているわけです。そう主張していることをご自身はちゃんとお気づきなのでしょうか。

 

社会に与える害悪
次は「まじめ」が社会に与える害悪についてです。勝間氏によれば以下のプロセスを踏むそうです。

間違った努力は評価されるが、根本的な問題はまったく解決しない → いつまでも問題は先送りされる → 「お上」は永遠に崇拝と批判の対象であり、持ち上げられ、叩き落とされる → リーダーシップが継続しない → 社会システム全体の自己修復力を毀損する (pp. 122-123)

ちなみに「風が吹けば」は以下のプロセスをたどります。

大風で土ぼこりが立つ → 土ぼこりが目に入って、めくらが増える → めくらは三味線を買う → 三味線に使う猫の皮が必要になり、ネコが殺される → 猫が減ればネズミが増える → ネズミが桶にかじりついて、桶を壊す → 桶の需要が増えて桶屋が儲かる

今度から勝間さんの議論を「桶屋論」と称しようかな(´・ω・`)

「官僚の世界では、国民から集めた税金をどれだけ正しく使ったかではなく、天下り用の特殊法人をどれだけ数多く作ったかというのが評価対象となります。

必要もない規制を作り、特殊法人を設立するのは国の税金を掠め取るようなことなので本当はやってはいけないことです。しかし、この間違った基準をみんなで信じて、まじめに努力しているのです。」(p. 125)

私益のために公益を害する行為を批判するのは一向にかまいませんが、天下り問題が勝間さんの桶屋論とどう関係するのかよくわかりません。

勝間さんはまた、農林水産省が発表する「カロリーベースの食糧自給率」や医療における混合診療についても批判しています。

「これらの例からもわかるように、農業政策にしても、医療政策にしても、既存の仕組みを覆して新しいことにチャレンジしようとする人の足を引っ張ることばかりやっているのが日本です。要は、「みんなが努力しているんだから、結果に差がつくのは許さない」という「まじめの罠」にハマっているのです。努力の質によって結果に差が出てしまうと、まじめに努力している人が報われないからダメなのです。だからこそ、事前に差のつかない方向に誘導するのです。すなわち、努力は了が重要であり、質は問われないのです。」(pp. 128-129)

えっ、「みんなが努力しているんだから、結果に差がつくのは許さない」も「まじめの罠」なの? こういう結果平等主義を批判するのは一向にかまいませんが、ある目標に向かって一所懸命に突き進んでしまうと、なぜ結果平等主義者になるのかよくわかりません。むしろ、何事にも一所懸命になれない人の方が結果平等主義を望むのではないでしょうか?

2-1 「お上」信奉

話を続けます。勝間さんによれば「お上」は永遠に崇拝と批判の対象であり、持ち上げられ、叩き落とされるそうです。

「日本人にとっては、「お上」は永遠に崇拝と批判の対象です。小泉政権や民主党をあれだけ持ち上げておきながら、その舌の根も乾かないうちに叩き落とす―これまで繰り返されてきた光景です。…だいたい、「お上」という言い方が象徴的です。自ら自分の「主人」を探し続けているのですから。」(p. 130)

あのう、政治家のことを「お上」という人を見たことも聞いたこともないんですけど(-_-;)。これって1人ボケ・ツッコミ?

「国民の「お上」探しを端的に表しているのが、ねじれ国会です。衆議院選挙の時にはみんなが1つのイシューに飛びついて政権交代させても、実際にやらせてみるとまったく期待はずれで、次の参議院選挙のときにはひっくり返してしまいました。そして、参院選の次の衆院選では、そのまた裏が出るという構図です。」(pp. 130-131)

小選挙区制をとっている国ではありふれた光景なんですけどね。勝間さんはアメリカもイギリスも「まじめの罠」にかかっていると言うのでしょうか。

「しかし一方で、「まじめであることの副作用」も大きいということを知ってほしいのです。

たとえば、マッキンゼーに勤める前の私がそうだったように、多くの人は、政府、官僚、メディア、検察、大企業などをまじめに信奉しています。すると、信奉される側の、いわゆる「お上」の側も欠点を持てなくなってしまうという構図が生まれるのです。」(pp. 19-20)

日本人がとくに「政府、官僚、メディア、検察、大企業などをまじめに信奉」しているとは初耳でした。http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5213.html
によれば、日本人の信頼度(2005年)は以下の通りです。

行政 30.2%  政府 29.1%  国会 21.4%  政党 16.8%  大企業 36.2%

http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/5215.htmlによれば200年度における国会に対する日本人の信頼度はたったの19.7%。それに対して米国は37.1%、英国は34.6%、フランスは38.6%、ドイツは34.3%、イタリアは33.2%です。

どの日本人が「お上」を信奉しているのでしょうか。

「私たち日本人は「お上」に対して、ある意味でびっくりするくらいの「信頼」を抱いています。また、「お上」にいるエリートはとてもいい人であり、まじめであり、自分たちのことを真剣に考えてくれている―そう信じています。」(p. 43)

「私たち日本人」の私たちって誰のことなんでしょうね。

2-2 お上叩き

勝間さんによれば、お上は信奉されるからこそ、叩かれるそうです。

「これはどういうことかというと、この構図では、「お上」の側に「信じてくれている人を裏切れない」という心理が働き、その結果、政府やメディアなど、情報の伝え手は絶対に間違えてはならないという「無謬の存在」信仰ができあがってしまうということです。そのため、彼らが少しでも間違ったことをすると、今度は無謬の存在を信じていた「民」が、あらゆる面でバッシングをすることになります。すなわち、無謬の対象をスター化し、そのスターが失敗すると、今度は叩き落とすのです。」(p. 20)

勝間さん、ご心配なく。「政府やメディアなど、情報の伝え手は絶対に間違えてはならない」なんて思っている日本人なんてめったにいませんから。というか、政治家を無謬の存在と信じ込んでいる人を一度くらいお目にかかりたいものです。

「言い換えれば、「お上」に望むことは、自分たちの負担や判断を最小限にしてほしいという願いです。とにかく、なるべく安全、なるべく安心に毎日を過ごしたい。そのためにはリスクや責任はなるべくお上に転嫁し、自分たちはずっと安心な場所にいたい。そして、何らかの失敗が生じたときには、必ず人のせい、すなわち「お上」のせいにしたいのです。

こうした資質が日本人に備わっているため、日本社会の特徴の一つに「祭り上げ」と「神殺し」というプロセスがあります。これは、まずは自分が後で責任を取るのを防ぐために、普段から「神のように賢い人や集団」という存在を勝手に作り出し、祭り上げておくのです。すなわち、「私たちは、その賢い人や集団の言うことを素直に聞いていますよ」といつでも言えるような言動をとるというわけです。

しかし、その賢い人や集団が何かの際に失敗したりすると、今度は手のひらを返し、「神殺し」、すなわち、こうした人や集団を「神」の座から引き下ろすような行動を取るのです。第1章で挙げた私自身の例がそうであり、先の大震災で、政府や東京電力などに対するバッシングの嵐などもそのいい例です。そして、その儀式が終わると、また「新たな神」を探すようになります。」(pp. 43-44)

「政府や東京電力などに対するバッシングの嵐」だって?勝間さんが何がすごいかというと、東日本大震災で被災者の多くがあれだけ不幸な目にあっても、パニックに陥らず、政府にも逆上せず、ワシントンポストの記事の言葉を借りれば、「冷静で礼儀正しく、驚くほどけなげに対処している」日本人に対して、震災数ヶ月後にこれだけけなすことができることです。

反証不能な議論

勝間さんの議論がユニークなのは、「お上」に従順に従うことも、キレて反抗することも、どちらも「まじめの罠」にかかった例として提示できることです。自分の気に入らないものに従うと「祭り上げ」、自分の気に入っているものを叩くと「神殺し」。反証不能な議論展開ばかりです。以下は、東電の計画停電に対する批判です。

「つまり、情報開示がきちんと行われていないにもかかわらず、みんな「お上」の言うことに素直に従うわけです。なぜなら、事故を起こしたとしても「お上」は「お上」であり、無条件の信頼を寄せているからです。…もちろん、これだけの事故ということもあり、「お上」に対する批判的な論調も一部では見受けられますが、まだまだ、「お上と国民の病的な相互依存関係」は続いているといっても過言ではありません。」(p. 46)

東電を批判しても「まじめの罠」、東電の言うことを聞いても「まじめの罠」。お上に従う、抗議する、というまったく逆の行動どちらとも勝間理論で説明できるから反証不能なわけです。

関係ない話

「先の衆議院議員選挙で、私たちは民主党政権を選択しました。自民党の無謬性から、民主党の無謬性を選んだのです。しかし、選んだときはまるで救世主のようにもてはやしましたが、いまとなっては厳しい批判の目を向けています。すると、次の参議院選挙では野党という反対勢力にまじめに投票することになります。「自民党さん、ごめんなさい。あなた方のほうが、民主党よりは『お上』としてはマシでした」というわけです。こうなればねじれ現象が生まれるのは必然です。』(pp. 48-49)

それが民主主義なんですけどね。

草薙君の酔っぱらって裸になり謹慎処分を受けましたが、勝間さんはこれも気にくわないようです。

「誰でも、酒が入れば失敗の一つや二つはあると思いますが、有名タレントはそういうことは許されず、あくまで完璧であることが求められるのです。」(p. 51) 「これは、どう考えても行きすぎだと感じるのは私だけでしょうか」(p. 52)

社会的なモラルの基準と勝間さんの基準が一致していないだけのことなのでは? これも「まじめの罠」なの? 昔の日本は酔っぱらいオーケーだったから、草薙君も20年早く生まれればよかったのでしょう。

「フランスのシラク前大統領が不倫していることについてどう思うかと日本のテレビ局がフランスでインタビューしたとき、人々の反応は「なんでそんなことをいちいち聞くんだ? 政治的な能力と不倫に何の関係があるんだ?」というものでした。これが日本なら、総理大臣は即座にクビでしょう。」(p. 52)

これも「まじめの罠」なの? 単に勝間さんは、政治家の女性関係は政治家の資質とは関係ないからとかく詮索すべきではない、と考えているだけのことなのでは? フランス人の国会に対する信頼度は日本人の2倍ですよ。それって、日本人よりフランス人の方が「まじめ」ってことにならないのですか?

「以前、国有林の枝が落ちてきて大けがをした人が、国の管理が悪いと訴えて裁判で勝利したように、「安全神話幻想」をつねに与えていなければならないような国です。」(pp. 52-53)

アメリカの裁判の方がもっとひどいですけどね。アメリカは日本よりひどい「まじめの罠」大国ってこと?

「とはいえ、学者になれば今度は無謬の存在でなければなりません。たとえば時代の状況が大きく変化して、それまでの主張と少しでも齟齬が出てくると、「お前、前に言っていたことと違うじゃないか。学者のくせに間違えやがって!!」といった別の形で轟々たる非難を浴びたりするわけです。」(p. 66)

ちょっと意見を修正しただけで「お前、前に言っていたことと違うじゃないか。学者のくせに間違えやがって!!」と轟々たる非難を浴びている学者って誰のことなんでしょうか? いたとしてもあんまりはいないと思いますが。

「携帯電話でもNECとカシオが連携し、富士通と東芝が連携し、といった形でメーカーの数が減ってきています。」(p. 64)

これも「まじめの罠」のせいなの? 単に日本は携帯電話メーカーの数が多すぎるからじゃないの? こんなに携帯電話メーカーがある国が日本以外にありますか?

「日本では「肩書きがある人はエラい。それ以外はただの人」という極めてランク主義的な評価しかありません。たとえば、私が経済について語ると、「勝間和代は経済学者でもないのにエラそうなことを…」と言って批判する人がいますが、これも、「まじめの罠」にハマっている人の典型的な反応です。」(pp. 65-66)

海外では肩書きがある人はえらくないのでしょうか。アメリカの方がよっぽど経済学博士号を持たずに、経済評論家になるのは困難だと思いますが。というか、勝間さんはそこらの大学の経済学教授よりも経済についてマスメディアで語っているじゃないですか。自分自身が反証例になっていますよ。

話がまたかなり脱線してしまいました。勝間さんによると、「まじめの罠」のせいで、社会システム自体が自己修復力を失い、世の中がダメになるそうです。

「社会システムというものは、何かの課題に向けて個々人がよかれと思って行動を取り、それが集合体となってよりよい社会を作っていくという自己修復力が必要です。しかし、「まじめの罠」の世界においては、組織の論理と社会の論理(市民の論理、民間の論理)が食い違っています。内輪の組織の論理さえ押さえておけば、自分たちはその枠内においては罰を受けないという仕組みのせいで、世の中がおかしくなるのです。」(pp. 132-133)

組織と社会の論理が違うことくらい、David AllisonのEssence of Decisionでも読んで勉強し直してください。どーして、「まじめの罠」の世界じゃないと内と外の論理の相克が起きないってことになるのかなあ…。ちなみに個人の論理と社会の論理も異なりますよ。

「これらの問題に全体的に共通するのは、組織の定めた枠内でまじめに努力を重ねることがあまりにも推奨されてしまうと、みんながそこに向かって突っ走り、その結果、おかしなことが起こると言うことです。

…つまり、みんなが自分の組織の論理によってしか動かなくなると、それが集まって作られる社会全体が間違った方向に動いてしまうのです。これは、みんながまじめに何かをやっていたら全員がどんなに悪いことをしていても免責される感覚です。」(p. 137)

要するにみんな私欲だけじゃなく公益も考えて行動しようねっことですよね。その意見自体はなにもおかしくないですよ。でもそれが「まじめの罠」とどう関係するんですか? また「桶屋論」になってますよね。この主張を反証するためには、「まじめの罠」にかかっているのにみなが公益を重視するケースと、「まじめの罠」にかかっていないのにみなが私欲ばかり追求するケースを見つけないといけません。前者のケースを見つけるのはほぼ不可能です。だって誰もが私欲を犠牲にして公益を優先している社会なんて存在しませんから。では、後者のケースはすぐ思いつくでしょうか。

すぐ思いつきました。経済危機に直面しているギリシャです。国民のほとんどは公益を無視しています。勝間さん、まさかギリシャの国民も「まじめの罠」にはまっているなんて言わないでしょうね。

 

勝間和代さんの『まじめの罠』をまじめに読んでみる: ①「まじめ」とは何か
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11月 3, 2011 · Pukuro · No Comments
Posted in: 雑談

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